Balade audioguidée © AL - Troyes Champagne Tourisme (4).jpg

JAP : オーディオガイドツアー 「トロワの歴史の中心部」

Cultural ,  A pie a Troyes
A pie
2h 30min
Fácil
Puntos de interés
1 トロワの歴史と紹介
ようこそシャンパーニュ地方、トロワへ。これから、驚くほどの、魅力溢れるトロワの旅がはじまります。きっと、ハッとするような発見があることでしょう。どうぞ建物を見上げることをお忘れなく!
それでは、街の散策をお楽しみください。
さっそく、まだご存知でない方のためにもトロワの紹介を始めます。
トロワの町はコルクの形をしています。しかも、ただのコルクではなくシャンパーニュのコルクの形なのです。少し興味が湧いてきましたか。マルヌ県とならび、オーブ県も素晴らしいシャンパーニュの生産地です。 町中、シャンパーニュの泡のように光り輝いています。一歩歩くたび、シャンパーニュの歴史の中心地、トロワの町の美しさに飲み込まれていくことでしょう。この散策では、輝かしい過去の歴史の全章を守り、披露し続けている街の中を旅することになります。
残念ながらかつてこの町を囲っていた城壁だけは随分前に公園と大通りにとって変わられたため、ご覧いただくことができません。しかし、新たにできた公園と大通りのおかげで、上空からコルクの形に見えるようになったのです。是非地図やポストカードで確かめてみてください。
ここに作られた最初の町は、かつては、現在より遥かに小さな町で、長い髪が特徴の小柄な民族、ガリア人のトリカッセス族が、蛇行するセーヌ川に守られたこの場所に定住することに決めたのです。また、ガロ・ローマ時代に町にはアウグストゥス皇帝への敬意の表れとしてアウグストゥボナという名がつけられました。
そして現在のトロワになり、その名称には、この町のルーツであるトリカッセスの名残を見ることができます。
2 市庁舎
市庁舎のルイ13世様式のファサードに書かれた革命的なスローガン「自由、平等、博愛…または死」を鵜呑みにしてはなりません。
トロワの人々は穏やかで、訪れる人々を快くもてなしてくれますので、ご心配は無用です。この活気溢れる広場には町の鼓動が聞こえます。
夏の間は、優しい夕暮れどきの音楽の街(Ville en Musiques)フェスティバルが、街の4カ所で音楽を奏でます。
秋には、新人からベテランアーティストまでフランス中から1000人以上の歌手や合唱隊員たちが招かれる歌唱とフランスのシャンソンに捧げられたシャンパーニュの夜フェスティバルが大勢の観衆を魅了します。、また、劇場や美術館で1年中開かれている催しにも足を運んでみてください。
そのほかにもヘリテージナイト、48時間に及ぶヴィンテージカーラリーなどの合唱隊の2年おきのイベントも必見です。
街を散策したり、楽しみを共有したり、またトロワに来たくなるさまざまな理由があります。。トロワの人々の暮らしぶりも見えてくるはずです。
3 . サン・レミ広場と屋内市場
精神の糧を得たあとは、大地の恵みをお楽しみください。
「バルタール」様式のこの大市場は1562年にフランソワ、ピトゥが創設した学校の跡地に1874年に建設されました。20世紀に改築され、今でも新鮮で活気溢れる場所となっています。
さあ、中に入って、最高の名産品をご賞味ください。有名なソーセージ、アンドゥイエットもあります。焼いて食べてもよし、鍋で煮込んでシャンパーニュソースを上からかけても美味しく楽しめます。アンドゥイエット好きの中には、「本
物のアンドゥイエット愛好家友愛協会」 (Association - Amicale - d’Amateurs - d’Andouillettes - Authentiques)、通称AAAAAの会員もいます。この協会はアンドゥイエットに本物の品質ラベルを授与しています。つづいて、シャウルス。これは牛乳で作られたクリーミーなチーズで、シャンパーニュやロゼ・デ・リセイと同様、原産地統制名称(AOC)に認定されています。 そのほかにもペイ・ドースのシードルやブリエンヌ・ル・シャトーのシュークルートなど、この地方のさまざまな農産物をお楽しみください。市場は日によっては15世紀に建てられたサン・レミ教会の前の広場まで延びています。少し田舎風の作りで尖った特徴的な塔を持っているのがサンレミ教会です。
4 シャンパーニュのコルク
トロワではしばしばシャンパーニュのコルクの話を耳にします。
それは世界で最も有名で最も多く飲まれている優れたスパークリングワインの産地だからではなく
ただ、トロワの町の形について話しているのです。
上空から見ると、まさに特徴的なシャンパーニュのコルクの形をしていることがお分かりいただけるでしょう。事実、この輪郭はセーヌ川の蛇行と地図に書かれていない左側の城壁が破壊されたことによってできあがりました。代わりに当時の都市設計者の提唱により、溝を埋めるために並木の大通りと公園が作られました。
さて、コルクの話に戻りますがシャンパーニュのコルクのヘッドとボディという話を聞いても驚かないでくださいね!手短に説明するとボディは市庁舎とその周辺のルネサンス建築の部分、ヘッドはまさに今あなたがいるところにあたります。古代の城塞と大聖堂を中心とする宗教的権力の中心地です。博物館とオテル・デュー・・ル・コントの間に位置するオート・セーヌ運河がこの2地点の美しい結び目となっています。
5 トロワのハート
ロマンチックな都市であるトロワは、トロワに関する物語をただ人々に感じてもらうだけでなく、イベントで町の魅惑的な特徴を伝え、名声を得ているのです。
シャンパーニュのコルクにそっくりなその形から、今やトロワには頭と体があると言われています。この街のハートのシンボルにはトロワのアーティスト
ミシェルとティエリー・カイヨー=フエルの心がこもっています。
その作品は橋の修復に誇りを示すため、埠頭のちょうど中央に置かれています。現在使われなくなった運河はコルクの頭と体の部分との分け目を形成します。夜には、赤いライトアップでハートが鼓動するのが見られます。
それゆえ唯の比喩でなく文字通りハートの町なのです。
トロワは雅やかな愛の街であり、近代小説の元祖となった12世紀の宮廷愛の詩人、クレティアン・ド・トロワの故郷でもあるのです。
彼は詩を通じて円卓の騎士の高貴な価値観に加え、女性の美しさ情熱をそそぐという新たな価値観の美徳を私たちに教えてくれます。
アーサー王伝説の一節にある、女性が敬意を示さないのは、あなたが心に名誉を持っていないということです。無邪気な息子パーシヴァルへ向けたこの母の言葉を、パーシヴァルは後にブランシェフルールの腕に抱かれたときに理解したことでしょう。パーシヴァルが聖杯伝説の中で探求したものは、つまり女性への愛だったのではないでしょうか。
同様にシャンソン歌手として知られ、シャンパーニュ地方と自分の土地のトロワからの独立の最後の望みであったテオバルト4世は優れた戦士であったことに加え、文筆家でもあったのです。彼は多くの騎士についての歌を作り、ロマンチックな愛の美徳を称賛しました。お嬢さん 私があなたに初めてお会いした時、あなたが私の目の前から去った時 私の心は震えました。これが彼の有名な詩です。
愛の裁判所と表現されるトロワ、世界中のほかのどこに 誰かの愛を裁く場所がありましょうか? 愛の裁きを行う特権を持った都市がごく僅か、フランスにあるのです。愛を裁き、心の問題が検証する、トロワはそのような特権を持った町の1つです。公聴会が王国の著名な女性たちによって主宰され、配偶者間の意見の相違が仲裁され、道徳的問題が議論されました。
裁判所がただ一つ従うべき判例は宮廷愛だけで、そのほかは誰かの良き見解によって彼ら自身が導かれることが必要でした。彼らは原則に基き、裁かれます。例えば、恋人が長期不在になったのを言い訳にその恋人を見捨ててはならない。つまり、たとえ彼が戦争に行ったとしても彼の存在が奪われたわけではないということです。トロワとオーブ県は何世紀もにわたってロマンチックな地域なのです。トロワは以前、王と女王が結婚する場所として選ばれたこともあります。
喧嘩王ルイ10世、イングランドのアンリ5世などがその例です。『宮廷愛の芸術』という書がアンドレアス・カペラヌスによって書かれ、13の戒律による礼儀的な愛の指示が伝えられた時代がありました。
現実でも、架空の話でも多くのカップルの愛がオーブ県で芽生えています。
アベラールとエロイーズ、フレデリック・モローとアルヌー夫人、フローベールの『感情教育』に登場するポーリーヌ・ド・ボーモン、作家フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン など数え切れません。これらの素晴らしい後見者たちに恵まれながら、トロワとオーブ県を愛の都と言わずにいられるでしょうか?ハンガリーのアーティスト、アンドラス・ラピスが作ったリリーローザの彫刻付近や、プレオー広場にあるエロイーズ橋や愛の木にあなたも、愛の証の南京錠をつけてみてください。リリーローザは愛のバラを意味します。このほかにも、ダンピエールの岸壁とクレマンソー通りの交差点で『くちづけをする少女』の像に出会えます。この高さ150センチほどの彫刻はオランダのアーティスト、ジェットジェイコブスによって作られました。
6 オテル・デュー・ル・コント(旧病院)
オテル・デュー・ル・コントの歴史から始めましょう。この施設は有力で寛大なシャンパーニュ伯アンリ1世(自由伯)が12世紀に建設した旧病院です。現存ずるU字型の建物は、18世紀に建てられました。その後、ホスピスとなり、1988年に閉鎖されました。現在では改築され、大学施設が入っています。オテル・デュー・ル・コントは学生たちの若さによってよみがえりました。。コント・ド・シャンパーニュ岸の側にオテル・デュー・ル・コントの別館の1つ、薬学博物館があります。見上げると、正面に印象的な日時計が見えるでしょう。非常に珍しいこのアポテカには実験室と、18世紀の「シレーヌ」と呼ばれる塗装された木製薬箱の見事なコレクションが展示された薬局があります。。薬箱の中にはセージやボダイジュ、カモミール、マンドレークの根、竜血、人の頭蓋骨やミイラ、宝石から作られた粉末を見つけられるはずです。面白そうでしょう?
また、美しい磁器やガラスの器、錫製品、マジョリカ、アルバレッリ、ピルケース、三脚など数百の品もご覧いただけます。ここは好事家や玄人にとっての楽園です。シテ通りを歩くときは、オテル・デューの見どころ、中庭をご覧ください。1760年にルイ15世御用達の鉄製業者、ピエール・デルファンにより作られた巨大な錬鉄製の門で守られています。ペディメント部分にはフランスの腕が盾を持っている様子が表されています。
7 アグリッパ街道(シテ通り)
さて、時は451年に遡ります。神の懲罰として恐れられたアッティラ王とフン族が町の入口付近を通ったとき、彼らが普段なら躊躇せず行うはずの略奪と虐殺を慎んだのです。
何故なのでしょう?不思議ですね。シテ通りは蛮族の大群には狭すぎたのでしょうか?
いいえ、当時アグリッパ街道と呼ばれ紀元前22世紀、21世紀につくられたこの通りはイタリアのミラノとフランス北部のブローニュ・シュル・メールを結ぶ主要な道でしたからそんなはずはありません。後にガロ・ロマン・アウグストボナ・トリカシウムとなった私たちのトリカセス族のガリアの町も侵略されてしまいそうでした。そこで奇跡が起こります。聖ルー司教が自ら蛮族の前に進み出て、アッティラ王にシテ通りに続く門をくぐらないよう説得する適切な言葉を述べることができたのです。伝説によると、ルー司教は、一時はライン川のほとりに人質として連行されましたが、全てが丸くおさまります。幸運にもルー司教は解放され、無事に町に戻ることができました。
8 旧ユダヤ人街
1040年〜1105年に生きた偉大な歴史上の人物、ラシはトロワの出身の学者です。聖書を解釈し、タルムードについて言及した彼の名は、彼が育ち学んだこの地の名とともに世界中に広く知れ渡りました。11世紀〜13世紀の間トロワのユダヤ人コミュニティはシャンパーニュ伯から特別な保護を受けました。ラシを含め、ユダヤ人家庭はエヌカン、サン・フロベール、パオン、コルドリエ、オディフレッド、ブシュラ通りのあるサン・フロベール地区に住んでいました。ラシはパオン通りに住んでおり、現在のエヌカン通りの場所でブドウを育てるワインの製造者でもありましたが、どの家に住んでいたのかは分かっていません。
旧シナゴーグの敷地に建てられたサン・フロベール教会は1830年に火災で消滅し、焼け残った建物ももはや礼拝場としては使われなくなりました。その後車庫となった旧教会は、現在は住宅地となっています。。また、昔の話になりますが、シテ通りとコント・ド・シャンパーニュ岸の角には、かつてトロワのユダヤ人街の入り口を示す門がありました。
コルクのボディ部分に入る時、シナゴーグとラシの作品を知るためにブリュヌヴァル通りにどうぞお忘れなくお立ち寄りください。
9 エヌカン通りと旧コルドリエ修道院
今わたしたちは、トロワの拘置所の外にいます。1792年、旧コルドリエ修道院は刑務所へと変わりました。これは通常人々が訪問を避ける場所です。しかし、今日は立ち入ることのできないこのグレーの壁の向こうには、トロワのさまざまな歴史が刻まれています。1263年に建設されてからフランス革命に至るまで、この修道院はトロワの宗教生活、文学、芸術生活の中心地の1つであり、市の行政にも携わっていました。。市役所とどのような関係があったのでしょうか。。現存する市庁舎は17世紀に建てられ、この建物ができるまで、市の会合は修道院の食堂で開かれていました。トロワの最初の市長でああるエドモン・ブシュラは1493年にそこで市長に選ばれたのです。
その後フランス最古の図書館の1つであり、トロワで最初の図書館が、、通りの名前となったジャック・エヌカンの功労により、1651年にこの場所に創設されました。当時、4680冊の蔵書を見るために遠隔地の人々もこの図書館を訪れました。それらの貴重な書物のほとんどが現在はトロワ・シャンパーニュ・メトロポル・メディアライブラリーに保存されています
10 サン・ルー博物館とクレティアン・ド・トロワ
宝物を見るのは好きですか? ではサン・ルー博物館へ向かいましょう。
数千の展示物の中に、プアン・レ・ヴァレの宝物をご覧いただけます。宝物の中には5世紀の蛮族の首長の墓から発見された武器や装身具が眠っています。これらの宝物はしばしばキルデリク1世の墓から発見されたものと比較されます。
今から博物館について説明致します。この博物館は非常に古いもので、1831年にサン・ルー修道院の敷地に建てられました。中庭は支石墓、巨大な石碑と研磨機などがある、興味深い場所です。博物館は、重要な地域考古学部門、13世紀〜15世紀のトロワ彫刻の展示、子供に人気のある自然史博物館と、14世紀〜18世紀の時代ごとに分けて並べられたヴァトー、ナトワール、ダヴィッド、ミニャール、ルーベンス、ベロット、フラゴナールなどの絵画のエリアで構成されています。これらの絵画はどのようにしてここに集められたのでしょうか?理由は単純で、その大半は1789年のフランス革命に続く押収により集められたものなのです。
さて、あなたはアーサー王の円卓の騎士、魔術師マーリン、ランスロット、パーシヴァルの冒険、そして聖杯の伝説について聞いたことがあるでしょうか?これらの伝説と登場人物は全て現代小説の元祖とされる中世文学史上最も重要な、クレティアン・ド・トロワによって12世紀に生み出されました。サン・ルー博物館の裏側に沿った通りには彼の名前が賛辞として記されています。そして、その通りから続くシュヴァリエ・オ・リオン通りの名前は彼の作品に由来するものです。
11 サン・ピエール・エ・サン・ポール大聖堂
全長114メートルのサン・ピエール・エ・サン・ポール大聖堂はフランス最大規模の大聖堂の1つです。その歴史は波乱に満ちています。
第一に、この建設は13世紀前半から17世紀までの長期間に及びました。
そして2つの塔のうちの1つであるサン・ポールの塔が資金不足で建設されず、未完成のままになっています。祭壇の裏にあたる外側の部分が最も古く、大聖堂の正面が最も新しく作られた部分です。雷、竜巻、火災や革命によって扉の大きな像がすべて破壊された今もなお、この大聖堂はゴシック建築の至宝の一つに数えられています。レヨナン・ゴシックとフランボワイヤン・ゴシック様式が組み合わされた、この建造物は、崩壊することなく、5世紀間に渡る工事にも関わらず建物の形状が維持されています。
サン・ピエール・エ・サン・ポール大聖堂にはシャルトル大聖堂の記録に並ぶ、1500㎡のステンドグラスがあります。182の窓が、13世紀〜19世紀のステンドグラスの歴史の比類ないパノラマを作り上げています。
大聖堂は、その他に複数の優れた絵画、例えばレオナルド・ダヴィンチの最後の晩餐に触発された絵画パネル、16世紀のトロワ派の創造性を示した彫刻、この大聖堂の原点であるクレヴォ修道院に由来する18世紀の大オルガンなどの典礼的な家具を所蔵しています。
更に、大聖堂には他にも素晴らしい宝物があります。これらは革命中に略奪されましたが、フランス各地からの購入と、特に内陣における考古学的調査によって再構築されました。その中には12世紀〜16世紀の素晴らしいエナメルのコレクション、、ベルナール・クレールヴォーと聖マラキの頭蓋骨が入ったベルナールの聖遺物箱があります。
12 サン・ニジエ教会とその周辺
教会の敷地内にある、聖マウルスに捧げられたこの建物の歴史は、5世紀後半に遡ります。582年、ガロマーニュの司教が、当時奇跡で有名だったリヨンの首座司教ニジエの聖遺物をトロワに移しました。彼はその聖遺物をサン・モール教会に置き、それ以降サン・ニジエ教会と呼ばれるようになりました。この建築物は時代の流れとともに変化し続け、最終的に16世紀に完成したものが現存しています。玄関ドアは有名なイタリア人彫刻家、ドミニク・ル・フロランタンが手掛けました。彼はトロワへ移り住む以前は、フォンテーヌブロー宮殿でフランソワ1世に仕えていました。教会の正方形塔は1619年頃に完成しました。その釉のかかった瓦の屋根はブルゴーニュ様式を思い起こさせます。
教会の内部ではゴシック身廊の大きさと明るさを感じることができます。
また、ステンドグラスは16世紀のトロワ派の優れたコレクションの1部にもなっています。旧約聖書と新約聖書の主題、トロワの歴史や神話などが描かれています。そのほかにも、キリストの埋葬や色鮮やかなピエタ、美しい哀れみのキリストなど16世紀の彫刻を鑑賞できます。
教会の周囲には数多くの木骨造りの家が復元され、そしてトロワとオーブ県の彫刻家による3つの作品の複製が庭に置かれています。マンドリンを弾く優雅な若者を描いた彫刻はじっくり見る価値がありますよ。これは、ポール・デュボアが手掛けた『フィレンツェの歌い手』です。オルセー美術館ではオリジナルのものが見られます。偉大な彫刻家は彼の故郷、ノジャン・シュル・セーヌのカミーユ・クローデル美術館で彼の生徒アルフレッド・ブーシェと共同のギャラリーを持っています。パリのモンパルナスのラ・ルーシュの創設者であるアルフレッド・ブーシェの像は、彼の作品『泉の子供』とともにサン・ニジエ広場に置かれています。ブーシェは若い彫刻家、カミーユ・クローデルと、オーギュスト・ロダンの間を取り持った人物としても有名です。広場の3番目の彫刻は『オレステ』と題される、近隣の通りに名を残すトロワの彫刻家ピエール=シャルル・シマールの作品です。
ご覧の通り、トロワとオーブ県はルネッサンス様式の彫刻の発祥の地であるだけでなく、19世紀彫刻のるつぼでもありました。
13 ドーファンの家
「コルク栓の頭」とも呼ばれる下部地区にある家はトロワで最も古い家の1つです。
これらの家の特徴は、長年の重みで傾いているように見えるドーファンの家ドーファンの家に顕著にあらわれています。1472年にマントルピースに残された碑文に記されているように15世紀に建設されました。
黄色いファサードが特徴的なこの家は、聖ニジエ教会の後陣に位置し、シャイユエ地区の端に位置します。2004年に行われた修復を経てもなお、その外観は15世紀と16世紀に遡るこの地区の建築様式に厳密に従っています。
建築の典型的特徴はとりわけ縦仕切りのある窓と張り出し窓です。ドーファンの家には2つの張り出した屋根があり、1つはクレベール通りに面し、1つは後部のファサードに面しています。この地区の住居の大半は運良く、トロワ中を焼き尽した1524年の大火を免れました。家の周りを歩くと北の隅柱の基部に、3つのゆりの花と、王冠を被った王太子の紋章を見ることができます。この紋章はフランソワ1世の長男、将来のフランス国王アンリ2世のものです。この家に住んでいたラシャ製造業者はかつて王太子が彼の家を訪問したことを誇りに思い、記念としてこの木の彫刻を彫ったという伝統的な言い伝えがあります。
14 リナール・ゴンティエ通り
リナール・ゴンティエ通りの名前は16世紀〜17世紀にトロワに遍在するこの芸術を伝道したトロワのガラス職人の名前に由来します。
この通りはトロワの最も絵画的かつ典型的な通りです。ここには2つの有名なホテルがあります。これらのホテルは"美しい16世紀のトロワ"の遺産の復元の成功例と言えるでしょう。トロワにはヨーロッパ最大の木骨造りの家屋群があり、そのいくつかは3階建てで張り出しがあるのが特徴です。これらの多くはルネサンス期に建てられました。石や煉瓦の土台の上に粘土とわらで軸とオークの木のフレームを組み合わせて構成されています。その後、全体を石灰と、建物を赤や緑、青、黄色に着色するための顔料で塗り固めます。その虹のような色彩の豊かさは、見る人と写真家達を楽しませてくれます。
15 旧司教宮殿とトロワ現代美術館
大聖堂の右側にある旧司教宮殿は現在、トロワ現代美術館となっています。修復中に発見されたロマネスク様式の窓に示されているように、宮殿は12世紀に建てられましたが、主な装飾作業は15世紀に行われ、17世紀には建物の翼の部分が追加されました。1870年にバチカンから持ち帰られた由緒ある荘厳な菩提樹がある中庭の前には、トロワ司教の紋章で飾られた門があります。
中庭を大聖堂の重厚な輪郭の建物が見下ろすように囲んでいます。司教の住居は大聖堂から遠く端の方にありました。右手側の建物は赤煉瓦と白い煉瓦が交互に並ぶシャンパーニュのチェック模様が目を引く、典型的なトロワの建築です。美術館の入り口に続く廊下を渡ると、パリのジョルジュ・ポンピドゥー・センターから持ってこられた現代彫刻が点在する美しいフランス式庭園があります。
トロワ現代美術館は1982年に旧司教宮殿内に設けられました。所蔵品は2000点以上で、絵画、デッサン、彫刻、ガラス製品、陶器、アフリカや太平洋地域の工芸品など多岐に渡るフランスで最も優れたコレクションの1つと言われています。このコレクションは主要衣料品メーカーとトロワ出身の見識ある芸術愛好家、ピエール・レヴィと彼の妻デゥニーズから寄贈されたものです。ピエール・レヴィは、特に有名なアパレルブランド、ラコステの製造を手掛けたドゥヴォンレイ・ルコワンのCEOでした。同社の製造部門は今もトロワに置かれています。展示されている絵には1850年〜1950年の間に流行したあらゆる種類の画法やテーマ: 写実主義、新印象派、点描、ナビ派、フォーヴィズム、ポストキュービズム、パリ派、抽象、悲惨主義などが見事に反映されています。ドーミエ、ドガ、クールベ、ゴーギャン、ドラン、ブラック、ヴラミンク
、モディリアーニ、バルテュス、ビュッフェ、デュフィ、ヴァン・ドンゲンなど偉大な画家達の作品が並んでいます。この美術館を訪れた人々は、文字通り圧倒され、世界中にその評判を広めています。
16 サン・ピエール・セラーとプリュネル・ド・トロワ
フォルモンの建物の後ろ側に位置する、大聖堂の向かいの建物では、トロワ固有の飲み物、プルネル・ド・トロワが蒸留されています。アルコール度数40度で、深い琥珀色をしています。アーモンドや繊細なバニラとスパイスの風味などが混ざった複雑で芳醇な香りが楽しめます。プリュネル・ド・トロワのレシピは1840年に誕生し、1900年のパリ博覧会では金賞を受賞しています。レシピの秘密はサン・ピエール・セラーを何世代にもわたって経営してきたフォルモンと家によって固く守られています。プリュネル・ド・トロワはトロワの美食文化遺産が誇るものの1つで、男女を問わず人気があり、大聖堂広場を通る観光客もその発見を喜びます。
このリキュールはシャンパーニュと並んで観光客がトロワを再訪したくなる名物の1つなのです。少し味わったら、中庭のシャピトルのセラーをご覧ください。傾斜のある屋根が見えるでしょう。
昔、大聖堂の参事会員がワインと小麦を保管するために使っていた小屋です。その骨組みは13世紀に作られたもので、専門家によると、民間の建物としてはフランスで最も古いものの一つに数えられます。
17 オテル・ド・プチ・ルーブル
オテル・ド・プチ・ルーブルは王室の象徴である、あの有名なパリのルーブル宮殿から名前をとっています。この壮大な建物はトロワの木骨造り建築の代表的なものです。16世紀〜18世紀の間に段階的に建設、再建が行われました。
これはかつては大聖堂の参事会員の住居で16世紀の錬鉄製の井戸と3つの滑車をみることができる正方形の中庭もあります。オテル・ド・プチ・ルーブルにはアンリ・ド・ポワチエ、執行官、司教、知事や、サンリス司教でその後トロワ司教となったオダール・エヌカンなど多くの著名人が住んでいました。また、1793年から1839年にかけて、人々と馬が休憩する中継所として使用され、30時間でトロワとパリ間を走る乗合馬車を受け入れていました。1988年〜1989年に行われた改修工事により13世紀にガロロマン城壁の場所に建てられた半円形の塔が再建される機会がもたらされました。工事により、以前の古い建物に近代建築の特徴が巧みにとり入れられました。もちろん塗装された側面部分の壁は保持されました。職人たちはしばしばグロテスクな顔のキャラクターを彫りますが、それらが魅力的な微笑みをあなたに向けているのをお分かりいただけるでしょう。
18 プレオー広場
緑豊かなプレオー広場は、ある意味でリベラシオン広場の対となる広場であり、旧オート・セーヌ運河を隔てて位置しています。12世紀には当時シャンパーニュを統治していたアンリ一世(自由伯)は、自分の宮殿と大きな教会サン・テティエンヌの大学教会の2つの建物を建設しました。伯爵の家と礼拝堂は隣接していたため、宮殿の住人は外に出ることなく容易に邸宅から大きな教会へ礼拝に行くことができました。サン=テティエンヌの大学教会はこの地域で最初の宗教建築物の1つであり、パリのサン・ジェルマン・デ・プレ教会とプロヴァンのサン・キリアス教会とほぼ同時期にできました。
残念ながら、宮殿と教会は革命後に取り壊されてしまいましたが、ナポレオン1世により、この地にオート・セーヌ運河が作られ、この業績は今日でも賞賛されています。この優れた波止場は第二次世界大戦まで木材の港として機能していました。コント・ド・シャンパーニュ岸通りを歩いていくと、トロワのオート・セーヌ運河が幸運にも残された場所を通ることができます。シテ通りの角にある回転橋の係員の家の前で是非立ち止まってご覧ください。
これは、パリから来る平底船が小麦市場で販売される商品やパリのデパート向けのメリヤス製などを詰め込んで町の中心部まで移動する際に使われていました。
19 神聖なステンドグラスの街
トロワにおいて、ステンドグラスはガラスの記憶です。専門家からは"聖なるステンドグラスの街"という愛称で親しまれています。理由は簡単で、オーブ県には約9000㎡のステンドグラスがあり、フランス国内のステンドグラスの半分を占める、シャンパーニュ=アルデンヌのステンドグラスの半分を占めています。。なぜこの街の教会が豪華に見えるのかお分かりいただけるでしょう。15世紀と16世紀に、トロワのガラスペイントがフランスのガラス細工を風靡しました。凝ったデザインと非常に明るい色使いが初期のトロワ派の特徴です。イタリアのルネサンスの影響を受け、第二期からは色を抑えた透明や灰色の彩度の低いガラスが中心になっていきました。その後、ガラス職人のリナール・ゴンティエが再び色彩豊かなガラスを作りはじめました。トロワ派は彼の時代で終焉を迎えました。ステンドグラスは下から上へ、また左から右へと、まるで漫画のように話がつながっています。当初は、複数の並べ置かれたガラスで宗教的な場面が語られていましたが、後々日常生活の場面も描かれるようになりました。裕福な人々は、自分たちの姿を表したステンドグラスを注文しました。ダンピエール埠頭とロジェ・サラングロ通りの角にあるシテ・デュ・ヴィトライユで魅力的なステンドグラスの世界を覗いてみてください。展示施設には12世紀から21世紀までの10世紀間のステンドグラスを集めたコレクションが常設されています。そのうち25点の宗教および世俗作品は定期的に展示の入れ換えが行われています。また、ここにはワークショップ、ゲームや映画を楽しめるインタラクティブエリアも設けられています。
20 セーヌ川
1900年以前、トロワの一部はベネチアのようでした。12世紀にシャンパーニュ伯がトロワの水路を建設しました。これらはセーヌ川を2つの部分に分割した複雑で巧みに設計された水網でした。旧セーヌは分岐することなく真っ直ぐ通り、都市部のセーヌは無数の運河、小川、水門、溝に分かれています。水路のうちいくつかは城壁に沿って流れており、街の防御機能を果たしていました。バルビュス大通りは、城壁は今日取り壊されているものの、その1つの例です。セーヌ川は経済的な機能も担っていました。セーヌ川近くに工場、製紙、染料工場、紡績工場ができました。その例はネルヴォー運河、ブーシェ・ド・ペルト通り、またコント・ド・シャンパーニュ岸の端の運河の右岸にある、トゥール通りの橋から1857年〜1859年の間に建設されたプロテスタント教会まで辿ることのできるコルデ川など行に見られます。今日も、約120kmの水路がトロワの市街地を通って穏やかに流れています。トロワから約20km離れたオリアンの森にセーヌ川の貯水ダムが建設されたため、氾濫の心配はありません。散歩にも最適です。
人々の記憶に残る1910年にあったような大洪水が起こる危険性は取り除かれました。当時の水路は町の発展とともに消えてゆきました。しかしそれらは新たな都市整備の機会ももたらしました。例えば、大聖堂の後ろの、かつてリル運河が流れていた場所に、大学のキャンパスが作られ、新たな役割を担うようになりました。が
21 リベラシオン広場
県評議会事務所の所在地で、県のすその部分に位置するリベレラシオン広場は歴史に満ちています。ここは、トロワの重要な地区で、街の二つの部分の交差地点、つまり私たちが言うコルクのヘッドとボディの部分を繋ぐ線を形成しています。理由は後ほど説明いたします。
この広場は、以前墓地であった場所と二重教会の敷地内に建てられました。
教会は18世紀後半には取り壊され、その後、一時的に穀物市場が開かれる場所となりました。リベレラシオン広場は何度も名前が変わり、100年以上トロワの人々に使い続けられた広場は現在、近代的な公園へと生まれ変わりました。庭園の下には特殊な形の螺旋状の地下駐車場があります。さらに、庭園横にある7階建てのホテルの客室には近くのサン・ウルバン大聖堂を彷彿させるステンドグラスが飾られています。
22 サン・トゥルバン大聖堂
Pトロワの大聖堂、サン・ウルバン大聖堂には世界中から旅行者が訪れます。
この輝くゴシック様式の建築構造とステンドグラスが人々から賞賛されています。ヴィオレ・ル・デュックもまたサン・ウルバン大聖堂の建築構造は最適な石の設計がされていて、存在する石材建築の最高傑作だと賛辞を述べています。サン・トゥルバン大聖堂はトロワ出身の唯一の教皇ウルバン4世のお気に入りでした。
その昔...1262年、貧しい靴修繕職人の息子、ジャック・パンタレオンは華麗な教会での職務を終えた後、最高の法王になりました。聖体祭を始めたのも彼でした。その後、15世紀に彼は家族が持つ屋台の敷地に大学教会を建てることを決意しました。そうして1905年にやっと完成したこ教会がこのサン・トゥルバン大聖堂なのです。聖堂内は大挙してきた才能溢れる彫像家の作品で飾られました。私たちはこれらを素晴らしいトロワ16世紀の作品と呼んでいます。
ここには、トロワ派ののサン・ベルナール・ド・クレルヴォーの数少ない作品の1つが残っています。不朽の名作、葡萄を持つ聖母の像は神聖な芸術の至福を表現しています。彼女の笑顔の優しさとドレープの豊かさは、繁栄への復帰を示しています。
23 トロワの偉人たち
この辺りで有名な名前はサン・トゥルバンだけではありません。何世紀にもわたり、トロワの多くの人々は世界に名を残してきました。
例えば、騎士道の小説の元祖、ランスロット卿を生み出したクレティアン・ド・トロワ、
聖書とタルムードに関する啓発的解説書を書いたラシ、
ルイ14世に召喚された才能のある画家と建築家_ピエールとニコラ・ミニャール、リシュリューの墓にも作品を残した優れた彫刻家、フランソワ・ジラルドン
などの名前をご存知でしょうか。
そのほかにも、天才的苗木職人で、多種の果物の開発にも成功したシャルル・バルテも有名です。彼のつくった果物のうち1つは今日、日本の富士山のふもとで栽培されています。
そして、精神治療士となり、その方法クーエ・メソッドを世界中に広めたトロワの薬剤師、エミール・クーエ
水泳チャンピオンのリュシアン・ザンス、サッカー選手のピエール・フラミオン、セーラーのリュック・ピロなどの偉大なスポーツマンたち。
また、サイクリストのマルセル・ビドとツール・ド・フランスのマイヨ・ジョーヌで有名なシモン兄弟も忘れてはいけません。
最近舞台やテレビで活躍するコメディアン、ジャン=マリー=ビガール、ラファエル・メズラヒ、テックスなどもトロワの誇りです。
ところで、男性の名前ばかりでしたが、有名なトロワ出身の女性は皆さまご存知でしょうか。1992年に列福され、2001年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって正規化された聖フランシス・ド・セールスのオブラティスの会衆を設立した
レオニー・フランソワーズ・ド・セール姉妹として知られるレオニー・アビアット。
世界中に知れ渡った粋なファッションデザイナー_クラウディ・ピエルロ。また、忘れてはいけない 1982年に教皇ジャン=パウロ2世による聖なる命令を受けて18歳にして聖人となり、カナダでモントリオール市を設立したマルグリッド・ブルジョワ。
この辺で終わりにいたしましょう。あまり多すぎると名前を覚えきれませんからね、トロワで皆さんが驚く発見をして、この町に恋することを確信しています。ですから、ちょっと長めに滞在してみるといいかもしれません。観光案内所は、老若男女に向けた様々な情報やプランを提供いたします。
私たちがお伝えしたかったことをお聞きくださり、ありがとうございます。良い1日をお過ごし下さい。ではまたお会いしましょう。
24 パイヨ・ド・モンタベール通りとシャャンポー通り

この通りには沢山のビストロやレストランがあり、古い中世の町のなかで賑わった通りの1つです。夜遅くまで多くの人が歩き回っています。
かつてはトロワのいかがわしい通りだったのですが、誰も語る人はいないようです。トロワ文化センターは1971年からずっと、16世紀に建てられたメゾン・デュ・ブーランジェの木骨造りの建物の後ろに立っています。展覧会や文学イベントの会場として使用されているこの建物は17世紀〜18 世紀に改装され、1960年代に市議会によって復元されました。
2階建ての家の正方形の小さなギロチン窓もオイルコーティングされた紙で装飾されていました。また、中世には家の職業を示す看板がついていました。その当時はパン屋だったのです。これらの木枠の壁はまるでコンクリートが世界を支配していた時代にカードで作られた家のように倒されそうだったと思いきや、幸いにも、30年以上前に遺産愛好家たちが立ち上がり、機械的な掘削機によって破壊されることを免れました。トロワの遺産の保護にかける彼らの熱意の高まりはこの当時から始まっています。あなたは彼らが保全した地域のちょうど真ん中にいます。
シャンポー通りは、パイヨ・ド・モンタベール通りの終わりに位置し、かつて"ラ・プーライユリー"と呼ばれていました。これはかつて家禽市場が近くにあったことに由来します。シャンパーニュフェアが開催された当時は賑やかな場所でした。そののち、当時多くみられた建物のすぐ外側で作物を栽培する畑の形式にちなんでシャンポーという名に変わりました。
また、今日では木骨造の建物も水彩画家や写真家から非常に人気があります。何百人ものアーティストが彼らのイーゼルをパイヨ・ド・モンタベール通りの方からさす光に照らされたこのエレガントな家トゥーレル・ド・オルフェーヴルの周りに置き、絵を描いています。螺旋階段を囲んだ砲塔のコーナーポストの基部にある3つの女像柱(女性の彫像)にご注目ください。26番の建物、オテル・ジュヴェナル・デ・ズルサンは3面の礼拝堂の真ん中にある石造りの正面にゴシック様式とルネッサンス様式が混在しています。この建物は以前、権威あるトロワ治安判事の家が所有していました。右側の壁には彼らの物語が描かれた古いスタイルのフレスコ画があります。ジュヴェネルは14世紀後半に重要な地位についており、シャルル6世の弁護士やパリの商人の監督官を務めていました。
25 猫小路
ここは傾斜した家、ボロボロの石畳、擦り減った舗装、全てが中世の雰囲気をもっている絵画のような道「猫小路」です。この辺りでは夜になると猫が屋根から屋根へと飛び回っているのをしばしば目にします。これが素敵な路地の名前の由来です。じっくり散歩をすると路地には端に猫の顔の彫刻がある梁が見つかるでしょう。
また、中世映画のセットの中にいるような気分が味わえる場所があります。モルティエ・ドル通りにつながるポーチにカツラを身につけた紳士の決闘、また中庭を見下ろすギャラリーでのスタントを想像できるでしょう。
梁の端に戦士の頭が装飾された建物は上級兵士のものであったことを示唆しています。本当に上等なものなのです。猫小路への通路につながるドアの柱に彫られた戦士たちの姿も忘れずご覧ください。
26 サント・マドレーヌ教会
サント・マドレーヌ教会はトロワ最古の教会です。最も美しく、大変素晴らしい教会の1つです。12世紀に創設され、大部分が16世紀に修築されました。
フランボワイヤン様式の扉の中に入っていくと、類まれな傑作、マドレーヌ教会の内陣仕切りが目に入るでしょう。内陣仕切りは内陣と身廊を分離していました。彫刻を施した小さな石の宝石、レースでできた3つのアーチが身廊大きな柱の間にぶら下がっています。1508年〜1517年にジャン・グアイルドが製作したものです。彼は地元の芸術家だったため、亡くなった際にはこの自分の作品の下で安らかな眠りにつくことができました。"押し潰されることを恐れず、祝福された復活を待っている"という碑文があります。
つづいて、サント・マルテの傷ましい表情のお顔を見てみましょう。メートル・ド・シャウルスの作とされる、16世紀のシャンパーニュ派の特徴を持つこの像はジャン・グアイルド氏の巨大な才能を目前にして悲嘆に暮れている様子を表しています。そして、ステンドグラスの窓はいかがですか?聖ルイの伝説やイエスの木を表した窓には色彩が溢れかえっています。そして世界創造を示すシーンにご注目ください!これをご覧になればトロワが"ステンドグラス窓の聖なる都市"という二つ名を戴冠した理由がお分かりでしょう。
27 ラシの家とシナゴーグ
トロワのシナゴーグは、ラシとして知られる、ラビ・シュロモ・イッチャキの名を冠しています。1040年にトロワで生まれた聖書釈義は、彼の生涯をかけた並外れた知的研究の賜物で、神聖なテキストへのアプローチに革命を起こしました。彼の書はそれ以来ヘブライ語の聖書とタルムードに関する解説の参考資料とされており、今日でも世界中の全てのユダヤ人学校の神聖なテキストとして使用されています。
トロワのラシ文化センターの協会は、広範囲で行われるイベントを通じてユダヤ文化を促進するために1960年代に発足しました。
この協会はラシの作品にスポットライトを当て、文化センターを礼拝、巡礼、熟考の場として広め、彼の名声をより多くの人々に伝えようとする野心的なプロジェクトを後援しました。このプロジェクトはトロワのシナゴーグで始まりました。最初のテーマは、ラシの家をもう一度彼の故郷、トロワに復活させることでした。協会はその家を復活させたのち、更にシャンパーニュ地方の精神的、歴史的な遺産の一部として強化したいと考えました。
どうぞ、忘れずに家の中をご覧ください。ベス・ハミドラッシュによる再建の様子が描かれた絵、フラヴィー・ヴァンサン・プティのステンドグラスの窓、ガラス屋根の大きな礼拝堂など側面の装飾はとても素晴らしいものです。ラシの作品にまつわる物語を伝える展示ホールは、彼の作品と人生への革新的でセノグラフィックなアプローチを通してラシについての鮮明なイメージをあなたに与えるでしょう。このプログラムを通して、礼拝と文化のユニークな世界へあなたを招待します。
28 ジャン=ジョレス広場
オーブ県で育った最も重要な政治家の1人は、この広場の28番地の家で生まれました。ここにある彫像がついたカメオは、政治に巻き込まれた素晴らしい作家、エドゥアール・エイオを思い起こさせます。この控えめなプレートには1872年7月5日に将来の会長がここで誕生したことが記されています。更にエドゥアール・エリオの小説クロード・グーにはもう一人の文豪であり政治家でもあった、ヴィクトル・ユーゴーは15世紀からすでに処刑台が設けられ、処刑場となっていたこの三角形の広場を好んでいなかったとも書かれています。
また、ちょうど小説が書かれた当時、ジャン=ミシェル・ウィルモットのような偉大な都市建築家によって改装された鉄道駅とサン・ニジエ広場の周辺など、トロワの他の場所と同様にこの広場も都市改造の準備がされていました。これにより、広場の上を封鎖してできたサン・ニコラ教会のケベットを覆う、丸いアーチ窓をもつ長方形の建物ができました。その後1905年以来"ブルス・デュ・トラベイル" 労働交流場となっています。
そこは65のメーカーが繊維製品を販売しにくる、メリヤス市場の前身で
いわゆる工場店のような存在でした。
29 ボワソー庭園とサン・ニコラ教会
トラヴァイル広場とサン・ニコラ教会の間に位置するボワソー庭園は中世から19世紀初頭において、人気のある町への入り口として親しまれていました。数十メートル離れて位置する、ポルト・デュ・デフロイ(鐘楼の門)は重要人物の訪問時に使われた引き出し橋、2つの塔、ポートクリス16の鍵があり、巨大で印象的なつくりになっていました。庭はトロワのメリヤス産業の台頭に貢献した一家に敬意を示す名がつけられました。この家の2人の実業家、レオン、アンドレ・ボワソー親子は地元で有名なステッチの専門家でした。
トロワの歴史中心地区に新奇性を求めて、アーティストのジャン=マリーが岩緑、水を混ぜたデザインを考案し、マルテシモネットのサイン入りの彫刻が置かれたボワソー庭園は大人も子供もリラックスできる素敵な場所です。
広場の大部分を占めるのは16世紀のサン・ニコラス教会です。それは1542年の大火で消失した12世紀の礼拝堂の旧遺跡に建てられました。ご覧の通り、下部はゴシック建築ですが、新たにできた上部はルネサンス様式で建てられました。 "美しい門"と呼ばれる南門は、古典的な建築様式に忠実に従って作られました。トロワのフリーメイソンで建築家のジャン・フォルショの作品です。窓の両側、壁の窪みにはダビデ王と預言者イザヤの彫像があります。それらは、16世紀にフランソワ1世が作らせたものです。
町の壁に裏打ちされたサン・ニコラ教会には19世紀半ばに取り壊されるまで、ファサードがありませんでした。その後に作られたファサードは2つの大きな出窓を通して見える礼拝堂の十字架を支えています。礼拝堂へは特徴的な階段を上って向かうことができます。この教会は全体がまるでアートギャラリーのようです。16世紀にシャンパーニュ派が制作した彫像のコレクション(サン・アグネス、サン・アガト)やメートル・ド・シャウルスによって作られた十字架の下に落ちるキリスト、フランソワ1世が作らせたキリストが像が施された柱などがあります。また、ステンドグラス窓は教会の装飾において特に重要なものです。最初の左端の行には、エルサレムの聖墳墓をモデルにした模様が描かれています。
30 16世紀の木骨造の家
互いに寄り添って曲がりくねったように見える屋根を持つトロワのコーベルの家は、肩に長年かかった重みを感じます。何を言っているのかといいますと、何世紀にもわたってかかっている屋根の重さを表しているのです。
これらの建物のほとんどは15世紀〜16世紀にできました。ヴィアルディン地区と同様にトロワ内でもっとも典型的な場所の1つです。これらの古い家々は一見オークとコブの破片で構成されており、壊れやすそうに見えますが、昔、町中が炎で包まれた際にも焼け残り、経年変化など様々な試練にも耐えてきたのです。現存するもの建物は、以前まとっていた暗い色のコーティングが剥がされ、往年の白塗りと顔料塗りの技術をもった大工による塗り直しにより
当時のような柔らかい色合いを取り戻しました。中世の雰囲気を取り戻したおかげでで、地元の人も観光客も不均等な石畳の上の魅力的な町の魅力を堪能できるのです。トロワは何千もの色を持つ町です。
そして、下をご覧ください!側溝に水を吐き出すイルカがいます。
上をご覧ください!天窓にはのんびり休んでいる滑車があります。
外をご覧ください!彫刻が施された梁の端には奇妙なキャラクターがいて、あなたに笑みを向けています。
31 オテル・ド・シャプレーヌ
トロワの通りの名前にもなっているパイヨ・ド・モンタベール家に所有される前、この優雅な石造りの家は、1536年に染物屋のニコラ・ラマンティエによって建てられました。かつては、オテル・ド・クレアヴォーと呼ばれていましたが、モンターバル家の息子、シャプレーヌ男爵によって改名されました。
さて、歴史の逸話はお好きでしょうか。オテル・ド・シャプレーヌに関して知る手がかりがたくさんあるのです。例えば、1814年2月8日トゥレンヌ通りにあるこの素晴らしい家はオーストリア皇帝フランツ1世、プロイセンのフレデリック・ウィリアム3世、ロシアのアレクサンドル1世の3人の同盟君主の会合の会場として使われたという記録があります。彼らは皆、ナポレオン1世を倒そうと決心し、フランス戦役の将来をかけてナポレオンに戦いを挑んだもののあえなく敗北しました。他には、オーストリア皇帝がオテル・ド・シャプレーヌの女主人であった女性のもてなしに大変感謝し、彼女に豪華なダイヤモンドを贈った話もよく知られています。
また、ここ オテル・ド・シャプレーヌ周辺には、ジェネラル・ソウシエ通りにあるオテル・デ・アンゴワゼルや、カンヌ=ヴィンツ通りのオテル・マリシー、シャルボネ通りのホテル・デュ・モイーズなど1度は訪れるべき場所がたくさんあります。
32 オテル・ド・ヴォリュイサン
ヴォリュイサンは“ヴァレ・リュイサント”(輝く渓谷)の略称です。
町のまばゆい場所で、路地と中庭の迷路のようになっています。
この名前は、ル・ヴォリュイサンと呼ばれるこのエレガントな集合住宅に由来します。ル・ヴォリュイサンは、オーブ県に隣接するヨンヌ県のシトー会修道院の名前を継承しています。トロワの丁度この場所に住居がありましたが、1524年の大火事で焼失しました。現存する住居は16世紀に再建されたものです。本館を囲む2つの矢印の塔は歴史と盛んな芸術生活に特化した美しい博物館へとあなたを誘います。
螺旋階段を上って、時代を遡る旅に出てみましょう。この博物館の壁は靴下博物館となっています。世界的な繊維の首都であったこの都市の産業の歴史は18世紀に最初にできた織物のみならず、ストッキング、履き物などトロワで製造された様々な製品からも遡ることができます。他にも、手袋やボンネット、そうです。ボンネットづくりをきっかけに、メリヤスの歴史が生まれたのです。
33 サン・パンタレオン教会
教会の博物館をご存知でしょうか。もうご覧になりましたか?
サン・パンタレオン教会は、トロワの教会の中で最もバロック様式が取り入れられたものの1つです。そこには、多数の聖人と殉教者の石像があります。全部で60ほどのカラフルな像があり、そのうちいくつかは有名なフィレンツェ派の彫刻家ドミニクの影響を受けたと考えられています。フィレンツェ出身の彼は、フランソワ1世に気に入られたため、フォンテーヌ・ブロー城内で働くことをやめ、トロワ内に新たに自分の工房を作りました。そこで転機がおとずれます。彼はトロワ派に多大なるイタリア芸術の影響を与えました。彼のおかげで、トロワにフィレンツェ芸術が浸透し、裁判所にも芸術がもたらされたのです。右手側の最寄の柱の飾り、聖ヤコブをどうぞよーく拝んでください。当時これを拝んだ人は皆、1789年のフランス革命の際に奇跡的に救われました。16世紀のグリザイユステンドグラスの窓のその美しさと明るさは空に向かって吸い込まれるように見える身廊の木枠にとても馴染んでいます。
34 エミール・ゾラ通り
エミール・ゾラ通りは地元の年配の人々から“ミロ通り“と呼ばれ、市内で最も人通りの多いショッピング街です。都市の再開発により、まるで魔法のように生まれ変わり、多くのショッピングスペースができました。歩行用スペースは広く設けられており、日中はとても美しく、夜は輝いています。
16世紀のデザインを雛形とした建物と、17世紀と19世紀の雰囲気を楽しめるこの道路沿いは散歩道にうってつけです。107番とかかれた建物には旧ジョリープリウールデパートを構成した19世の金属建築と工学の偉業が反映されています。ご存知かと思いますが、トロワ産業時代から残る遺産とともにルネッサンスの遺跡が復元されようとしているのです。
35 道具の博物館
15歳以上の若者に伝統的な商売取引の訓練を推奨する、コンパニオン・ド・ディヴォーの教えよりもオテル・ド・マウロは遥かに若者にノウハウを伝えることに長けた本当に素晴らしい博物館なのです。1度訪れることをお勧めします。メゾン・ド・ルティル・エ・ド・ラ・ペンセ・ヴリエール(文字通り、道具と労働思想の家)を意味します。
たくさんの宝物がショーケースに飾られています。ハンマー、コテ、ノミ、飛行機など全て
経年変化により緑青で覆われているのです。この博物館は手工業の工芸品の賛美歌のようなものです。転じて、一部の人からは"労働者のルーヴル"と呼ばれています。
1万の古い道具が巧みに展示されているだけでなく、工芸品と職人に関する多数の本を所蔵する図書館も併設されています。この驚くべきコレクションはメゾン・ド・ルーティルの創設者の1人であったポール・フェラー神父によって始まり、展示物は今日でも増え続けています。歴史が染み込んだこの博物館の外観も、建築物として見る価値があります。15世紀にはオテル・ドレールという名で呼ばれていました。反対側の建物は最後のルネッサンスの王子の住居であり、後にラ・トリニテ病院となりました。しかし、実際その病院は貧しい子供のための学校として、またボンネットを作る際に最初に靴下の型を使ったといわれる工場がおかれたこともありました。ちなみに、トロワがニットの名産地となったきっかけはこの工場です。また、その後は公共のダンスホールとし使用されたり、更には兵舎、印刷工場など様々な用途で使用されたのです。
オテル・ド・マウロは、その全く異なる用途に適応できる建物だったのです。レンガとチョークが重なり合う、シャンパーニュ・チェッカーボード方法が取り入れられた素晴らしい建築物です。
36 テンプル騎士団
あなたは今、ジェネラル・スーシェ通りにいます。ここではパリの軍事知事としてのキャリアを終えた軍の偉大使用人へ賛辞が贈られています。1906年以前は別の兵士の名がついていました。兵士の僧侶です。誰のことかお分かりでしょうか。はい、それはエルサレムのソロモン神殿の有名な騎士たちのことです。彼らはテンプル騎士団としてよく知られています。彼らはかなり波乱万丈な歴史があります
話は十字軍の時代に遡ります。ユグス・デ・パンを筆頭にトロワの領主と周辺地域の人々が集まり神殿勲章を作成しました。ちなみにユグス・デ・パンという名前は近隣の村の名前からとられたものです。神殿命令を創設しました。宗教面と軍事面の両方におけるこの命令の内容は主に聖ベルナルドによって作られ、1128年に開かれたトロワ評議会で承認されました。ブルスラード・ド・シセリー司令官によってこも令が解除された後、オテル・ド・ラ・コマンドリー・デュ・テンプル3番地は長時間かけて建てられました。煉瓦と石を組み合わさった造りで、ニス塗りの屋根が取り付けられています。優れた銀行家であった、かつてのテンプル騎士団の富を彷彿させます。
町のこの部分は長い間、テンプル地区として知られていました。また、物が豊かであったため黄金の三角地帯としても広く知れ渡っていました。これらから、富があったことが伺えます。
37 中世のシャンパーニュ見本市
トロワはフランドルとイタリアのちょうど中間地点に位置しています。
中世に時代を遡ると、シャンパーニュとブリーで開催された見本市のおかげでヨーロッパの貿易の中心地となりました。また、6月に開催されたウォームフェアと10月に開催されたコールドフェアはティボー2世のもと、盛んになりました。当時、商売の知識に長けた伯爵がおり、彼は街に繁栄をもたらした商人の増加を図るため、トロワにつながる道の端で商人たちに防具器を提供するという聡明な取り組みを始めました。その結果、防具を着用し、万全な格好でスパイスやシルクを袋いっぱいに持ってくる地中海出身の男性、革や毛皮を持ってくるドイツ出身の男性、布地を持ってくるフランドル出身の男性などが大挙しました。この貿易網は後に、金融市場の中枢となった都市に外国為替機関を導入するきっかけとなりました。シャンパーニュデュールは、現在のユーロのようなもので、トロワポンドは英国で今日と同じように、貴重な石の重量を量るために使用されていました。
ここ、モン・デ・ションジュ通りは両替商の裕福な生活と都市の経済的繁栄を思い出させるものであると同時に政治的、精神的、文化的な影響力があった通りです。また、見本市は12世紀〜13世紀にピークに達し、14世紀を最後に衰退しました。
38 マルシェ・オ・パン広場
これは中世の街で最も活気のある広場の1つであったに違いありません。ここに、パン屋がやってきてパンを売っていたため、マルシェ・オ・パン(パン市)広場と名づけられました。それ以前は理由は不明ですがハーブ市広場と呼ばれていました。淡水魚の商人たちが度々ここへやってきて熱弁をふるい地元の農民たちを困らせていたそうです。
ここで見られるエレガントな井戸は以前レタペ・オー・ヴァン広場としてしられていたアウディフレッド広場からひかれています。かつてはブション・ド・シャンパーニュ周辺に80の井戸がありましたが、そのほぼ全てがポンプの発明と消火栓の出現により19世紀に姿を消しました。家庭や建設業界に給水するだけでなく、これらの井戸は重要な消化活動の役割を果たしました。トロワでは複数回大きな火災が起こりました。1524年に起こったものはこのあたりにあった黙示録の屋台で発火し、1500の家を裂き、街の3分の1が焼失しました。景観上の理由で、井戸は現在町の中心部に復元されています。また、ここから周りを見渡すとエミール・ゾラ通りにいる人々が見えるはずです。
39 サン・ジャン教会
トロワの人々は何の音で起きるのでしょうか?長く住んでいる方々は、鐘の音だと答えるでしょう。トロワには多数の鐘楼があります。しかし、あなたの目の前にある13世紀に建てられたサンジェン教会の尖塔を見上る必要はありません。そうです、サンジェン教会の鐘楼は1911年の5月のとある夜に1度も鳴ることなく崩壊してしまったのです。ガラガラガッシャーンと反対側のパティスリーであった家に落ちたのです。この教会の修復作業はトロワ大聖堂の修復に匹敵する規模のものでしたが、修繕が進み、サン・ジャン教会に徐々に栄光が取り戻されました。時計塔は現存していますが、以前有名な矢があった場所はぽっかり隙間が開いていて、空がのぞいています。新たに作られた鐘は1420年イギリスのヘンリー5世とフランスのキャサリン妃がモントリオールのノートルダム会衆の創設者、マグリットブルジョワの洗礼により、挙式した際に、祝福の音として鳴り響きました。